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どーも。

祖父が他界した

父方の祖父はとても元気で、趣味のテニス中に倒れたらしい。倒れたという連絡があって1週間くらい意識が戻っていなかったので、なんとなく心の準備はできていた。カテーテルを入れる手術をして、あとは麻酔が解けてみないとわかりませんみたいな話で、そんな人間を自然解凍するみたいに上手くいくんだろうかと思っていたが、やはりだめだった。

1週間前から先に祖父の病院に行っていた父から、金曜にいよいよヤバそうという連絡を受けて、土曜朝に15時の面会予約に間に合うように新幹線に乗った。病院は神戸で僕は東京からだったので、行きは京都で昼飯でも食べようかなとのんきに考えていたが、新幹線で容態が急変したと言われて最速で神戸へ向かった。

病院に着いたのは13時頃で、受付で孫ですと伝えると「特別面会許可証」という札を首から下げさせられた。コロナもあるので、そもそも家族でも原則は面会できないらしい。エレベーターは異様に広くて、緊急時はここに担架とかベッドがそのまま入るんだろうなと思った。周りのあらゆるもののデザインが不吉を予感させる空間だった。そしてそもそも僕があまりこういう病院に来たことがないことに気づいた。

面会は同時に3人までで、僕と父が入った。集中治療室というから物々しい場所を想像していたが、他の患者たちのいる大部屋の先にある普通の小さな病室だった。

祖父は本当にただ眠っているようで、心拍数や血圧の表示されているモニターはピクピクと動いていた。でも実際は薬でぎりぎり持たせているような状況で、これ以上入れると内臓のほうが持たないらしい。

父が額に触ってごらんと促すので、恐る恐る触った。相手の許可無く体に触れるというのはものすごく奇妙な体験で、祖父の体を物のように扱うことに抵抗があった。祖父の額は確かに温かくて、むしろちょっと熱いくらいで、まだ生きているんだということがわかった。人間は最後の最後まで体温を保ち続けるんだというのが、なんとなく不思議だった。父はしっかり額を触っていたので、もう何度もこうして触っているのかなと思った。

「ただ寝ているようだが、いびきをかいていないね」と父が言った。確かに祖父はいびきがうるさかったが今は静かなものだった。いびきに寂しさを感じるとは夢にも思わなかった。父が体のシーツを少しめくって右手を見せてくれたが、赤黒く腫れ上がっていた。つい、痛々しいからやめてと言ってしまった。そのまま病室を出た。

後から母や弟が到着して、病室に入っていった。全員祖父と面会したところで14時頃、みんなまだ昼食をとっていないことに気づいたので弟とスーパーに買い出しに行った。父は本当に朝から何も食べていなかったので、父の好きそうな弁当を買い占めて15分くらいで病院に戻った。

祖父は既に息を引き取っていた。

ほんの短い間に、とは思ったが、全く驚きはなくてむしろ驚いた。きっとすっと息を引き取ったのだと思う。もし15時の面会予約に合わせて到着していたら間に合っていなかっただろう。うちの家族が全員面会を終えた絶妙なタイミングでそっと息を引き取っていた。人に迷惑をかけることを嫌っていた祖父らしい亡くなり方だった。

父たちは落ち着いている暇もなく、すぐに葬儀の準備を始めた。葬儀屋に遺体を引き取ってもらう手筈を揃えなければならないし、親族やお坊さんにも連絡しないといけない。祖父はエンディングノートという、いままでの経歴や万が一のときの連絡先、口座情報などを記したノートを残していた。これはとても役に立った。

遺影の写真は選んでいなかったので、祖父の写っている写真を探した。これは余談だがGoogle Photoを使うと特定の個人が写った写真を一瞬でリストアップできるのでとても便利だった。

父たちが慌ただしく葬儀の準備をしていたが、僕らは特にやることもなかったので、買ってきた天丼を食べた。自分でも驚くほど冷静で、悲しみも無かった。いや、悲しいのは悲しいが、その悲しさを表現する方法は涙とかではなかった。むしろ、全てがあまりにも祖父らしい亡くなり方で、妙に納得してしまっていた。

月曜は友引だから、葬儀は火曜に行うことになった。お坊さんにも連絡していて、火曜の朝なら来られるということで決まった。2日後みたいな急な呼び出しでも対応できるのは普通にすごいが、こんなものなのだろうか。

父以外は病院にいてもやることがないので、この日はみんなで母方の実家に移動した。

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月曜はお通夜だった。霊安室で冷やされた祖父の体はとても冷たかった。「おくりびと」で読んだような、遺体のプロのような方が来た。体液がここに溜まって漏れちゃうから吸水シートを敷きましょうとか、そういう話をしながらテキパキと体を整えて浴槽へ移動させていたが、事務的な作業の一片一片に遺体に対する真摯さを感じた。みんなでひしゃくを使って水をかけ、その後にしっかりと遺体を風呂に入れ、ドライヤーを掛け、黄ばんだ顔に化粧をして頂いた。その手付きもまた丁寧で、まさに至れり尽くせりという感じだった。祖父のまさに昭和という感じの結婚式のアルバムを眺めている間に、祖父はすっかりきれいになっていた。

その後は棺に体を移動した。祖父の棺にはあの世でも美味しく食べられるようにと入れ歯を入れた。テニスラケットは燃やせないそうで、入れることはできなかった。

しばらくするとお坊さんがレクサスに乗ってやってきて、お通夜が始まった。祖母の時にもお世話になったお坊さんだった。お経は何を言っているか分からなかったが、時たま日本語が挟まるのは少し面白かった。

お坊さんはたぶん「イイ話」をされたが、「人生には3つの坂があり〜」「朝の字は〜」みたいな話も言葉の綾みたいなジョークに聞こえてしまい、あまり共感できなかった。そもそもレクサスに乗ってきたお坊さんに説教されてもなぁと思ったが、儀式なので何となく聞き流した。急な呼び出しにも合間を縫って来てくださったのは事実なので、そこは感謝しか無かった。

翌日はお葬式だった。本来は葬式の後に火葬を行いお骨拾いを行い、7日後に初七日という儀式を行うそうだが、今は葬式と初七日を同日に行うのが一般的らしい。そして今回はお坊さんのスケジュールの都合で葬式と初七日を一緒に行った後に火葬という流れになった。

親族のいる会社の社長名義でいくつか花が届いていた。電報も読み上げられたが、テンプレートかと思いきや意外とみんな文面が違ってちゃんとしているんだなと思った。お経とお焼香の後に祖父の棺に花を詰めた。ありったけの花と、祖父が大切に育てていた野菜を一緒に詰めて、棺が閉まった。男性陣で棺を持ち上げて霊柩車に納めた。

火葬場で、炉の中に運ばれていく祖父の遺体に最後の別れを告げた。昼食を取りながら2時間待ち、再び戻ると焼け残った白い骨だけが出てきた。スタッフに言われるがまま骨を拾い上げた。最後に喉仏の骨を見せてもらったが、思っていた以上に仏っぽい見た目をしていて感動した。

僕は翌日仕事があったので、その日のうちに帰宅した。父たちは遺品整理などをしていたらしい。物が多くて結構壮絶だったとか。

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祖父の命日は、祖母の命日の翌日だった。倒れた時点で、父たちは祖母が呼んでいるんじゃないかという話をしていたらしい。でも面会が間に合わないから1日だけ待ってくれたのだと。何とも祖父らしいと思った。

感傷に浸るような、悲しい雰囲気は終始なかった。先にも書いたが、皆祖父の死に納得していたように思った。それくらい、不思議なくらい自然な亡くなり方だった。最後まで自分の好きなテニスができて、祖母の命日の翌日に、みんなを悲しませずに旅立った。僕はまだ死ぬ予定は無いが、自分が死ぬならこういう感じでと思えるくらいには理想的な最期だった。

たぶん祖父も、あの世で祖母に自慢しているんじゃないかと思う。